「驫の谷」の立ち上げのため、相馬家第34代当主、相馬行胤が相馬藩領内に居を移します。
原子力発電所の事故による放射能汚染、避難指示という「国難」に直面したこの地域に、鎌倉時代以来この地を治め、800年間、国替えもなかった相馬藩の当主がこの地に戻る。そこには、これまで、人口が最盛期の3分の1にまで激減した江戸時代の天明の飢饉など幾多の苦難を乗り越えてきた相馬藩であれば、この苦難も必ず乗り越えられるという信念と覚悟があります。その思いを相馬行胤はこう語ります。
2011年未曾有の大災害が起きた後、私の唯一の道標は幾多の困難を乗り越えてきた先人たちの教えでした。歴史に希望を見出し、私どもに伝えてくださった大切なものを次世代に引き継ぎ、1000年続いてきたものをさらに1000年続ける。それこそが長きに渡りお世話になっている故郷のために私にできる唯一の事だとおもっております。あの日から12年以上の月日が経った今年、私たちは新たなステージに向かいます。
相馬藩領内の中で、なぜ浪江町に戻るのか。
一つには、浪江町がいまだ帰還困難区域が最も多く残る町だからです。2011年の放射線量の分布図を見れば、原発事故により飛散した放射性物質は、事故時の風向きにより北西に流れ、福島第一原発が所在する双葉町・大熊町の北に位置し、北西に長く伸びる形の浪江町に添って放射能が降り注いだことがわかります。この浪江町に「トノ」自ら居住することで、復興の先頭に立つという意志を示すのです。
もう一つ、歴史的な意味合いがあります。元禄14年(1701年)、相馬家第21代当主 相馬 昌胤(まさたね)は37歳で家督を養子である叙胤(のぶたね)に譲り隠居して、現在の浪江町幾世橋地区に移り住みました。昌胤が命名した「幾世橋村」は宿場町として繁栄し、後の浪江町の発展の基礎を築きました。この昌胤公の歴史にならい、2022年に14歳となって元服した息子に野馬追の総大将を譲った相馬行胤がいわば「隠居」して、浪江町に移り住む。そして、帰還困難区域に最も近い最前線、このフロンティアから、1000年続いてきた相馬の歴史を継承し、ここから1000年続く地域の新たな発展を築いていくのです。